
投稿第175号
IRONMANに賭ける思い!
2009年6月10日
愛媛県在住
内藤聡之助氏
◆トライアスロンを始めてからの数年間は、レースの成績はイマイチでも、もう楽しくて楽しくて仕方が
ありませんでした。地元新潟とその近辺で開催されていた51.5kmのレースと、年1回の佐渡Bタイプ
(ハーフアイアンマン)に出場し、スイムだけは一桁順位で上がれましたがゴールまでは終始抜かれ
っぱなしで、総合的なレベルは「中の上」といったところでした(『ゲッツ!』のダンディー坂野の芸は、
自身の評価では「下の中」だそうで・・・)。レース参戦が旅行みたいなものでしたし、30歳越えても「
まだ速くなれそうだ」という期待感と、スポーツ競技選手にあるまじき酒豪集団の“ワイルドなトライ
アスリートたち”の一員として見られることも無性に嬉しかったのです。レベル的には、本当に普通の
エイジ・グルーパーでしたが、トライアスロンに完全に魅せられてしまいました。
キャリアも8年目となり、そろそろ競技レベルのピークを迎えたくなってきた1998年の佐渡大会。ITU
ロング世界選手権を誘致して開催された、あのプレミアム大会です。運よく抽選に通って出場権を獲
得し、当時では納得のいく走りができました。そして、仲間うちにも「こんな練習をして、こんなに記録
を縮められた」ことを、コンコンと説明していました。つまり、自慢こいていたんですね。
そのとき、そこで自分よりも遅れてゴールした、当時同じチームのベテラン選手にこういわれたので
す。「どす鯉さん、51.5kmのレースや佐渡のBを何百回完走 しても、アイアンマンにはなれ
ないんですよ。宮古島?あれはストロングマンじゃないですか。スイムもバイクも距離が短
いし。宮古島や佐渡を何回完走しても、どんなに速くゴールできても、アイアンマンとは言わ
れないんですよ」。
ショックを受けたというよりは、目から鱗が落ちたような感じでした。1998年の佐渡大会が終わったそ
こから、ワタクシめのアイアンマン・ディスタンスへの挑戦が始りました。それまで宮古島大会へは3
回ほど出場して、全て完走はしていましたが、フルマラソンすらまともに走ったことがありませんし、
バイクだって練習で180kmや6時間なんて乗ったこともありません。スイムは割りと得意とはいえ、正
直、自分にとってはバイクもランも未知なる、恐れおののく距離でした。そして、翌1999年から主戦場
をロングに変更しました。
◆佐渡Aを2回完走し、アイアンマン・レースにやっと出場できたのが、琵琶湖から舞台を長崎福江島に
移して4年ぶりに再開された第1回の五島長崎アイアンマン・ジャパンでした。この大会で、初めてト
ライアスロン大会に出場したときと全く同じような、いえいえ、それ以上だったかもしれません。最高
気温38℃の炎天下の中、死力を尽くしてゴールを目指す選手、自分に鳥肌が立つような興奮と感動
を覚え、完璧にアイアンマンの虜になってしまいました。結果はボロボロでしたけれど。それでもこの
ときはまだ、アイアンマンをしっかり完走することだけでも大変で、目標は「最後まで元気よく走り
通し、完走すること」でした。
その後、再び転機が訪れたのが、忘れもしない2005年の6月3日。海外初レースとなったHawaii
Big
Islandで開催されたHonuHalfIronmanでした。この大会のバイクコースは、プロ選手でさえ嫌がると
いうコナ・ウィンドが吹きすさぶChampionshipと同じ“QueenKHighway”の後半部分です。スイムと
ランのコースこそChampionshipと違えども、スイム会場はビーチがきれいなこと!(USAキレイな
海水浴場の第一位を獲得したところです)別荘街とリゾート・ゴルフコースの中を縫って走るラン・コ
ースは、大小のアップダウンがあって飽きません。
そして、コースの何処からでも見えるのは、溶岩大地と何処までも開放的な青空、そしてBigIsland
の中心を走る巨大な山塊です。これら目に入る景色は、ことごとく強烈なエネルギーを放ち、「この
島は、俺に来いと呼んでいる!アイアンマン・ハワイに、いつか必ず来いと言っているのだ!
」と確信したのです(全くの勘違いでしょうが)。そして、翌年も再びこのレースでBigIslandの地を踏
みましたが、その体験、記憶は全く薄れることなく、さらに強烈に自分の魂に訴えかけてきました。「
また来い、今度はアイアンマンで」と。
実は、そこで自分の目標をハワイ出場に本当に変えさせたのが、最初の2005年のHonu大会ツアー
でご一緒した先輩選手「Aさん」でした。Aさんは、1980年代の後半からトライアスロンにのめりこみ、
全国でもトップレベルの選手として活躍され、数回ハワイ大会に出場されたご経験をお持ちの方でし
た。しかしご結婚を機に、家族を支えて人生の基盤を整えるため、トライアスロンから離れていった
のです。そして10数年たって「仕事の基盤もできたし、子供らも手がかからなくなってきた。そろ
そろ自分の人生を再び充実させようか」ということでアイアンマンに戻ってこられた・・・のです。
Aさんは再起後初レースにもかかわらず、5時間を切ってChampion
ship出場権獲得まであと一歩
の好成績でした。一方、自分はこのレースを「ハーフだしな、楽勝で完走!」と完璧になめていて
「楽ちい楽ちい海外旅行」の気分。結果は、6時間以上で完走でしたが、完全なる惨敗でした。
◆本題はここからです。私が非常に感心したのは、Aさんが10年ぶりにトライアスロンに復帰するた
めに、半年以上前の12月頃から準備をしてこられた、という事実でした。「10年前も今も、ハワイ
出場を目標に綿密に準備をして臨んだ」ということが、当時の自分には物凄く大きなショックでし
た。これほどまでのパフォーマンスを発揮するには、自分のように2-3ヶ月程度では土台無理な話
で、初めからAさんのような人と伍して走れるわけはいのだと、やっと気付きました。
そしてその年の所属クラブの忘年会で、「来年から、Hawaii出場を目指します」と周囲に宣言し
ました。1年を通じてトレーニングをるようになったのは、そのときからです。そして去年のIronman
Chinaで、またしても「13年ぶりにアイアンマンに戻ってきた」という復活アスリートに出会いまし
た。Aさんとは別の、自分と同い年で地元愛媛の選手「Bさん」です。Bさんも、聞けばAさんと全く同
じ動機でアイアンマン復活を決意されていました。「40歳を過ぎてようやく仕事も軌道に乗ってき
た。もう少し余裕を持って人生を楽む時期にきたとおもったし、社員にはそういう自分を見せ
たかった。そして、みんなにもそうあってほしい。それがHawaii出場を目指してトライアスロ
ンに復帰した理由(のひとつ)」。さらにBさんは、その目標達成のために2年間の綿密な計画を
立てて、そのI.M.Chinaのために準備をしてきたというのです。2005年以来、もう一度頭を殴られるよ
うなショックを受けました。
「ハワイを目指す」と宣言はしたものの、これまでの自分はまだまだ甘かった、と。左膝半月板損
傷で1年半ほど走れなかったこともあって、少々腐りかけていたところでしたが、彼らの「10数年振
りに復活してハワイを目指す」という決意の強さと、「半年単位、年単位で1レースのために準
備をしてきた」という話は、正真正銘のアイアンマンの真髄を見たようで、自分の心は大きく振動し
ました。
今年の5月。GWでBさんと「合宿」と称し、(天候がすぐれなかったので)たったの2日間だけでした
が、二人で早朝にLSDをしました。二人並んで走りながら、色々な事を話しながら25kmと30kmを走
りました。ここで、もう一段Hawaii出場への思いが強まりました。もっと正確にいうと、「アイアンマン
に賭ける心構えと、その楽しみ方」と言えるのかも知れません。「その楽しみ方」は、いろいろな
意味がありまして、トレーニングもその中に包含されます。
◆AさんとBさんに共通して感じたことは、Hawaiiへ向けたトレーニングの量や質などではなく、「普段
の生活の中でHawaiiを目指したトレーニングを取り入れることによる、毎日の、人生の充実
化」ということでした。それ以降、週末は毎週のように一人でも160km前後のロングライドにでかける
ようになれましたし、ロングライドを終えた後にも10km〜20kmを走るようになりました。「走れるよう
になった」というべきでしょうか。
平日の朝は5時には目を覚まし、15km以上のジョグや、90分のローラー練習をこなせるようになり
ました。日中の勤務時間は、夕方のトレーニングを確保するために、「残業しても何時までには終
了させる」と決めて取り組むようになりましたし・・・。今まででは考えられない自分です。
「IRONMANは未知なる自分の発見である」とは、アイアン・レジェンド、神様DaveScottが1990
年のアイアンマン・ジャパンで来日したときの言葉です。
さて、2週間後に迫ったIronmanJapanで、一体どういう「隠されていた自分」を発見することができ
るでしょうか?今からとても楽しみです。