特集第12号_マラソンあれこれ!

特集第12号(連載その7最終回)
マラソンあれこれ!

2008年8月24日
芦屋浜アスリートクラブ
会員:鎌苅滝生氏

12.マラソン世界歴代記録
以下、2008年3月20日現在のマラソンの歴代記録を記載しておきます。

男子記録

順位

タイム

氏 名

国 名

年月日

大 会

 1

2.04.26

ハイレ・ゲブレセラシェ

エチオピア

2007.09.30

ベルリン

 2

2.04.55

ポール・テルガト

ケニア

2003.09.28

ベルリン

 3

2.04.56

サミー・コリル

ケニア

2003.09.28

ベルリン

 4

2.05.38

ハリード・ハシーヌ

アメリカ

2002.02.14

ロンドン

 5

2.05.50

エバンス・ルト

ケニア

2003.10.12

シカゴ

 6

2.06.05

ロナウド・ダコスタ

ブラジル

1998.09.20

ベルリン

 7

2.06.14

フェリックス・リモ

ケニア

2004.04.04

ロッテルダム

 8

2.06.15

ティタス・ムンジ

ケニア

2003.09.28

ベルリン

 9

2.06.16

モーゼス・タヌイ

ケニア

1999.10.24

シカゴ

 9

2.06.16

ダニエル・ジェンガ

ケニア

2002.10.13

シカゴ

 9

2.06.16

高岡寿成

日本

2002.10.13

シカゴ


      女子記録

タイム

氏 名

国 名

年月日

大 会

 1

2.15.25

ポーラ・ラドクリフ

イギリス

2003.04.13

ロンドン

 2

2.18.47

キャサリン・ヌデレバ

ケニア

2001.10.07

シカゴ

 3

2.19.12

野口みずき

日本

2005.09.25

ベルリン

 4

2.19.36

ディーナ・カスター

アメリカ

2006.04.23

ロンドン

 5

2.19.39

孫英傑

中国

2003.10.19

北京

 6

2.19.41

渋井陽子

日本

2004.09.26

ベルリン

 7

2.19.46

高橋尚子

日本

2001.09.30

ベルリン

 8

2.19.51

周春秀

中国

2006.03.12

ソウル

 9

2.20.42

ベルハネ・アデレ

エチオピア

2006.10.22

シカゴ

10

2.20.43

テグラ・ロルーペ

ケニア

1999.09.26

ベルリン

10

2.20.43

マーガレット・オカヨ

ケニア

2002.04.15

ボストン

最後に、マラソンの世界最長記録、すなわちスタートしてからゴールするまで最
も長く掛かった記録にまつわるエピソードを紹介しておきます。マラソンで最も
遅かった公式記録は、日本の金栗四三(かなぐりしそう)が記録した「54年8
ヶ月6日5時間32分20秒3」である。

金栗は明治44年(1911年)に翌年開催されるストックホルムオリンピック
大会に向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録を27分も更新する大
記録を出し、日本人初のオリンピック選手に選ばれた。翌1912年のオリンピ
ックのマラソン本番は、北欧という地にもかかわらず異常気象で気温40℃とい
う猛暑に襲われ、出場選手68人中34人が棄権するというサバイバルレースと
なった。

金栗もまた暑さのため競技途中で倒れ、地元の農家で介抱されたのであるが、彼
の棄権の意思が競技委員に伝わらず、記録上「競技中に失踪し行方不明」として
扱われた。時は流れ、1967年にストックホルムでオリンピック開催55周年
記念式典を開催することになり、当時の記録を調べていたスウェーデンオリンピ
ック委員会は金栗が「行方不明」扱いで、完走も棄権していない状態であること
を発見し、金栗に改めて完走するよう要請した。粋なはからいに応じた金栗はス
トックホルムに赴き、式典の中で当時のコースを走って(実際には競技場内の1
00メートルで、残りの距離を走破した扱い)、ゴールした。54年8ヶ月5時
間32秒3でゴールを果たした時、「日本の金栗がただいまゴール。タイム55
年。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました。」とアナウンス
された。これに対して、金栗は「長い道のりでした。この間に孫5人ができまし
た。」とユーモアあふれるスピーチで答えた。この時金森は75歳。半世紀以上
にわたるマラソンのゴールであった。

金栗は日本の「マラソンの父」と称され、日本のマラソン界発展の礎を築いた人
物で、正月の風物詩にもなっている箱根駅伝の開催にも尽力したことでも有名で
ある。箱根駅伝では2004年以降、最優秀選手に対して「金栗四三杯」が贈呈
されている。金栗のこの世界最長記録は、偉大な彼にふさわしい、今後破られる
ことのない誇らしい記録ではなかろうか。


13.あとがき

マラソンに関する資料を整理し始めたのが、腰痛で福知山を途中棄権し、その後
練習を控えていた昨年11月末で、ここに至るまで4ヶ月も掛かってしまった。
年末年始の休暇を利用して仕上げるつもりでいたが、書き始めるとあれもこれも
と、当初想定の倍くらいの量となり、結果的には原稿用紙で80枚強にもなって
しまいました。ただ冗長なだけで、大した内容のものではなく、まさに汗顔の至
りであります。

しかし、マラソンを愛する皆様に楽しんで頂ければ、また少しでも参考になれば、
幸甚に思っております。誤字・脱字はもちろんのこと、内容そのものに関する間
違いや、資料の読み違いも多々あろうかと思います。どうぞご指摘の程、宜しく
お願い致します。2008年3月20日鎌苅滝生

(参考資料)
ヘロドトス著松平千秋訳「歴史」(岩波文庫)
馬場恵二著「ペルシア戦争自由のための戦い」(教育社)
JOC監修「近代オリンピック100年の歩み」(ベースボールマガジン社)
ジョン・J・マカルーン著柴田元彦・菅原克也訳「オリンピックと近代」(平凡社)
後藤正治著「マラソンランナー」(文藝春秋)
瀬古利彦著「マラソンの真髄」(ベースボールマガジン社)
金哲彦著「マラソン・駅伝の素朴な大疑問」(PHP文庫)
IOC、JOC,ボストンマラソンのホームページ

(事務局より)
約半年にわたる大作の投稿、マラソン大好きの日本人にとってAAC会員にとって大変参考になりました。
提供誠にありがとうございました。
正に今年は北京オリンピックの年、8/17は女子マラソン、8/24は男子マラソンが行われました。
シドニーオリンピックでは高橋尚子、アテネオリンピックでは野口みずきと二連覇の女子マラソンでしたが、
残念ながら今回は惨敗に終わりましたネ。参考までに記録を掲載しておきます!

大会正式名称:第29回オリンピック競技大会北京大会(Beijing2008OlympicGames)

■陸上女子マラソン 8月17日
順位 選手 国・地域 記録等 備考
1 コンスタンツァ・トメスク ルーマニア 02時間26分44秒00
2 キャサリン・ヌデレバ ケニア 02時間27分06秒00
3 周春秀 中国 02時間27分07秒00
13 中村友梨香 日本 02時間30分19秒00
■陸上男子マラソン 8月24日
順位 選手 国・地域 記録等 備考
1 サムエル・ワンジル ケニア 02時間06分32秒00 五輪新
2 ジャウアド・ガリブ モロッコ 02時間07分16秒00
3 ツェガエ・ケベデ エチオピア 02時間10分00秒00
13 尾方剛 日本 02時間13分26秒00
76 佐藤敦之 日本 02時間41分08秒00

特集第12号(連載その6)2008年8月1日鎌苅滝生氏

9.オリンピックのマラソン名言あれこれ

4年に1度のオリンピックのマラソンで極限の精神状態で闘った選手が、ゴール後に語っ
た言葉が名言として、われわれの記憶に残っているものがいくつかあるが、
ここではそれを紹介する。

『こけちゃいました!』(バルセロナ大会・谷口浩美)
最終日の男子マラソンで戦前から有力な優勝候補のひとりとして注目されていた
谷口浩美(*30)が23Km付近の給水所で水を取ろうとした時、後続選手に足
を踏まれ左足のシューズが脱げて転倒してしまうハプニングが発生。靴を履きな
おして走り出したものの、このロスが影響して優勝戦線から脱落。しかし、谷口
は諦めるここなく、次々と追い抜き8位でゴール。競技後のインタビューで彼の
人柄を表すこの一言は、全国のテレビ観戦者のほおをゆるめたさわやかな名言と
して記憶されている。

(*30)谷口浩美
高校時代は全国高校駅伝で活躍、日体大時代は箱根駅伝で山下り(6区)の
スペシャリストとして3年連続区間賞を獲得。旭化成入社後、初マラソンの
1985年別府での優勝、1987年の東京国際で優勝、1991年世界陸
上で優勝を始めとして輝かしい成績を残した。オリンピックは1992年バ
ルセロナで8位、1996年アトランタで19位。現役引退後、旭化成のコ
ーチを経て、現在は沖電気監督。谷口のマラソン戦績は、17戦7勝。

『生まれて初めて、自分で自分をほめてあげたいです』
(アトランタ大会・有森裕子)
1992年のバルセロナ大会で銀メダルを獲得したが、その後不振が続き、アト
ランタ大会への出場が危ぶまれたが、見事出場。ファツマ・ロバ、エゴロワに次
いで、銅メダルを獲得した際の言葉がこれである。全国に大きな感動を呼んだこ
の言葉は、大会後、さまざまな場面で引用されることがあり、影響力の大きさが
わかる。

『すごく楽しい42キロでした!』(シドニー大会・高橋尚子)
34Km過ぎでサングラスを投げ捨てて一気にスパートし、リディア・シモンを突
き放して前評判通りの強さをいかんなく発揮、オリンピック新記録で金メダルを
獲得した。その直後のインタビューに答えて、発した言葉。全国のテレビの前の
ファンにさわやかな笑顔を届け、Qちゃん人気が一段と増したのである。

10.ボストンマラソン

この章ではボストンマラソンについて整理しておくことにする。1986年にア
テネで開催された第1回近代オリンピックで、世界で最初にマラソン競争が行わ
れたことは、先の通りであるが、これをスタンド観戦していたボストン・アスレ
チック協会のウィルソン会長が、深く感銘を受け、翌1987年、アメリカの独
立記念日「愛国の日」の行事としてマサチューセッツ州ボストンでマラソンを開
始した。これがボストンマラソンの始まりで、以降毎年4月に開催されており、
オリンピックを除くと現在開催されているマラソン大会では最も古い歴史を有し
ている。

幾多の名勝負やエピソードを残し、ランナーなら誰でもが憧れる伝統の市民マラ
ソンとしてあまりにも有名であり、歴史と伝統を体感し、ランニング・ライフに
感動を加えてみたいと思う人がアメリカ国内のみならず世界中に存在するといわ
れている。マラソンコースは片道で、古代ギリシアのマラソンのルーツに則って
スタートとゴールを異なる地点に設定している。この大会のエイドステーション
や救護体制、ボランティアなどは、現在世界中で開催されているマラソンレース
のお手本になっているといわれている。有資格ランナーとオープンランナーの2
種類のエントリー方法があるが、有資格タイムは18~34歳の男3時間10分、
女3時間40分、以降男女5歳刻みで5~15分ごとプラスのタイム設定になっ
ている。(詳しくはボストンマラソンの公式ホームページをみればわかりますが、
AACの方はほとんどクリアするのではないでしょうか)オープンランナーは有資
格ランナーの後方からのスタートとなるが、6時間の制限がある。

今年も4月21日に第112回目の大会が開催されるが、過去日本人7人が優勝
しており、瀬古利彦は2回の優勝者として記録されている。女子の日本選手の優
勝はまだいない。ただし、日本出身でアメリカ国籍を取得したゴーマン美智子が
2回優勝している。なお、日本の青梅マラソンと勝田マラソンが姉妹マラソンと
のこと。

11.日本のマラソン

ところで日本のマラソンの始まりはどうなのでしょうか。日本のマラソンの発祥
は、実はアテネの第1回オリンピックに先立つ41年前の1855年(安政2年)
に行われた「安政遠足(あんせいとおあし)」であるいわれている。第15代
安中藩主の板倉勝明(かつあき)が家臣の心身鍛錬を目的として、50歳以下の
藩士96名に安中城から中仙道の碓氷峠にある熊野権現までの片道七里余(約2
9Km)を「遠足(とおあし)」と称して徒競走させた。その際の着順や氏名を
記録した古文書が昭和30年(1955年)に峠の茶屋から発見され、この日本
最初のマラソンが確認された。ただし、この「遠足」は1回限りの開催であった
とのこと。

安中市で安政遠足保存会が組織され、昭和50年(1975年)に「安政遠足侍
マラソン」という市民マラソンとして復活、毎年5月に開催されるようになり、
現在に至っている。この大会は、武者姿や飛脚等仮装したランナーが多く参加す
ることで有名である。

初めて「マラソン」と銘うったレースが行われたのは、明治42年(1909年
)で、神戸湊川から新淀川西成大橋までの31.8Kmで実施された。また、日
本初の女子マラソン大会は、昭和53年(1978年)に東京多湖畔で開催された。
特集第12号(連載その5)2008年7月14日鎌苅滝生氏

8.オリンピックで活躍した女子マラソン選手

女子のマラソンがオリンピックの正式種目に採用されたのは1984年の第23
回ロサンゼルスオリンピック大会(*22)からである。その名誉ある第1号金
メダリストは、アメリカのジョーン・ベノイト選手である。彼女は、スキーで
足を骨折した際のリハビリの一環としてランニングを始め、それをきっかけとし
てマラソン選手となったもの。ロサンゼルス五輪前年の1983年のボストンマ
ラソンで、女子として初めて2時間25分を切る2時間22分43秒の当時世界
最高記録で優勝したが、ボストンのコースは全体として下りの片道コースである
ことや、男女混合レースで男子ランナーをペースメーカーに使ったのではないか
といったことにより、この大記録を疑問視する見方が少なからずあった。高温・
多湿の中で行われたロサンゼルスの女子マラソンは、午前8時6分にサンタモニ
カをスタートしたが、グレテ・ワイツ、イングリット・クリスチャンセン(とも
にノルウェー)やロザ・モタ(ポルトガル)といった有力選手が積極的な飛び出
しを控える中、前半から快走し中間点で後続を500メートル離し、独走態勢を
築き、2時間24分52分の好タイムでゴールし、記念すべきオリンピックの女
子マラソン初代金メダリストとなった。これにより前年のボストンでの記録がフ
ロックではなかったことを見事に証明したのである。ちなみに2004年のアテ
ネオリンピックに至るまで、女子マラソンでその時の世界最高記録保持者が優勝
した例は、ベノイト以降出ていない。

このマラソンで金メダリストのベノイトに負けず劣らず話題を集めたのは、スイ
スのガブリエラ・アンデルセンである。ベノイトがゴールした20分後、アン
デルセンは競技場に戻ってきたが、極度の疲労と脱水症状でふらふらでまるで夢
遊病者のようであった。役員が救いの手を差し伸べようとするが、彼女は首を振
ってこれを拒否。大観衆総立ちの声援の中、競技場に入ってから5分44秒後の
2時間48分42秒、37位でゴール。ゴール後、応急手当により回復した彼女
は、「観衆の『最後まで頑張れ』の声援は覚えています。歴史的に意義あるマラ
ソンなので棄権する気はなかった。」と述べ、また、その後「私のことが大きく
報道されているが、私よりも最後まできちんと走った選手をもっと取り上げるべ
き」と語り、世界中に大きな感動を与えた。この大会の日本選手の出場は、当時
日本最高記録保持者の増田明美(*23)と2位の記録保持者の佐々木七恵(*24
)であったが、増田は16Km付近で途中棄権、佐々木は2時間37分4秒で1
9位に終わった。

(*22)第23回ロサンゼルスオリンピック大会
1932年以来の2度目の開催。1980年のモスクワ大会にアメリカ始め西
側諸国が参加しなかったので、その報復としてソ連やその他東欧共産諸国計1
6ヶ国が不参加となった。運営に当っては、税金を一切使わず、テレビ放映権
料、スポンサー協賛金、聖火リレーの参加料などで収入を得、日本円で約40
0億円の黒字を生み、オリンピックの商業化を決定的にした大会となった。
地元アメリカのカール・ルイスが、陸上競技で100m、200m、400mリ
レー、走り幅跳びの4種目で金メダルを獲得し、このスーパースターの活躍が
最大の話題となった。日本勢は、柔道無差別級で山下泰裕が右足ふくろはぎの
肉離れを起こしながら勝ち取った金メダルや、体操男子の具志堅幸司の個人総
合優勝、鉄棒の森末慎二の10点満点での金メダル等、計10個の金メダルを
獲得した。

(*23)増田明美
高校3年生の時開花、1981年4月に10000m、5000mの日本新を
出したのを皮切りに、出場するたびに快記録を連発し、6月までに3000m、
5000m、10000m、ロードの10Km、20Kmの日本記録を塗り替え、
一躍脚光を浴びた。1982年2月の初マラソンで2時間36分34秒の日本
記録で優勝し、途中計時の30Kmも合わせて、長距離全種目の日本記録をわず
か1年ですべて塗り替えるという快挙を達成した。1983年アメリカ・オレ
ゴン州のマラソンで2時間30分30秒の日本最高記録(当時ジュニア世界最
高記録)を樹立し、1984年のロサンゼルスオリンピック大会に臨んだ。
しかし、1983年頃から過度の練習と緊張、ダイエットのし過ぎで貧血症状
がひどくなり、五輪本番では、16Km付近で途中棄権となった。現役引退後は、
スポーツジャーナリスト・レース解説者として活躍しているが、その解説は、
現役時代の経験と出場選手への綿密な事前取材に基づいたきめの細かい内容で、
また、落ち着いた聞き取りやすい声と巧みな話術で好評を博している。

(*24)佐々木七恵
増田とともに初期の日本女子マラソン界を代表する選手の一人である。大学卒
業後マラソンに進んだが、東京国際女子マラソンには第1回から出場。198
1年にボストンで2時間40分56秒の当時日本最高記記録を樹立、翌年2月
この記録は増田に更新されたが、6月に2時間35分0秒で再び日本最高を記
録した。(さらにこれが1983年に再度増田塗り替えられたのは前述の通り。
)その粘り強い走りは、当時ヒットした連続テレビ小説にちなんで「おしん走
法」の名がつけられた。ロサンゼルスオリンピッでは、増田の途中棄権に対し、
最後まで粘り抜いたが19位に終わった。1985年の名古屋国際を引退レー
スと決め出場し、2時間33分57秒の自己ベストで見事優勝し、最後の花道
を飾った。その後のオリンピックにおける日本女子マラソン選手の活
躍は目ざましく、有森裕子、高橋尚子、野口みずきの3人がメダリス
トとなっている。

有森裕子はリクルート入社後、小出義雄(*25)の指導を受け頭角を現した。
初マラソンは1990年の大阪国際女子マラソンで6位の2時間32分51秒で
ゴール、この記録は当時の初マラソン日本最高記録であった。翌1991年の同
大会では2時間28分1秒の日本最高記録を樹立し2位となり、一躍日本のトッ
プランナーとなった。バルセロナ五輪の代表は、まず91年の東京の世界陸上2
位の山下佐知子が、次いで92年の大阪国際で2時間26分26秒の日本最高記
録で優勝した子鴨由水が内定。3つめのイスをめぐり有森と松野明美が争った
が、日本陸連は持ちタイムの良い松野ではなく経験と実績の有森を選出した。
当時この不透明で曖昧な選考経緯が大きな物議を生んだことは有名である。19
92年のバルセロナオリンピック本番では、レース終盤のモンジュイックの丘で
ワレンティナ・エゴロワとデッドヒートを繰り広げたが、競技場に入る直前に引
き離されたものの、8秒差でゴール、銀メダルを獲得した。記録は2時間32分
49秒。女子陸上でのオリンピックのメダル獲得は、1928年のアムステルダ
ムの人見絹枝以来64年振りの快挙である。1996年の第26回アトランタオ
リンピック大会では優勝のファツマ・ロバ、2位のエゴロワに次いで3位でゴ
ール、銅メダルを獲得した。タイムは2時間28分39秒。ゴール後のインタビ
ューで「生まれて初めて、自分で自分をほめたいと思います」と語り、多くの感
動を呼んだ。2大会連続のメダル獲得は、日本女子陸上選手では初めての快挙で
ある。有森は、1996年に肖像権を主張し、自らプロ宣言を行いコマーシャル
に出演した。「プロランナー」の第1号である。

(*25)小出義雄
マラソン・長距離選手の指導者として有名。順天堂大学時代は箱根駅伝で活躍、
大学卒業後高校教諭を経て、リクルート監督、積水化学監督、その後佐倉アス
リート倶楽部を設立、現在に至っている。女子選手育成に卓越した手腕を発揮
した名伯楽で、有森裕子、鈴木博美(アテネ世界陸上マラソン優勝)、高橋尚
子、千葉真子(パリ世界陸上マラソン3位)等、多くの女子長距離選手を育て
上げた。ところで、オリンピックの女子マラソンでの2大会連続メダ
ル獲得者は、有森の他にポルトガルのロザ・モタ(*26)と有森と
2大会連続激闘を演じたロシア出身のワレンティナ・エゴロワ(*2
7)の日本でも有名な二人がいる。

(*26)ロザ・モタ
かつては「ロサ・モタ」と表記されていたが、近年は「ロザ・モタ」が一般的。
1984年のロサンゼルスオリンピック大会で、ジョーン・ベノイト(アメリ
カ)、グレテ・ワイツ(ノルウェー)に次いで、銅メダルを獲得した。イング
リット・クリスチャンセン(ノルウェー)との3位争いを制して、2時間26
分57秒の記録であった。翌1985年のシカゴマラソンでは2時間23分2
9秒の2位となったが、これが彼女のベスト記録。1987年のローマ世界陸
上では、2位以下に7分の大差をつけ圧倒的な強さで優勝し、1988年のソ
ウルオリンピックでは銀メダルのリサ・マーチン(オーストラリア)、銅メダルの
カトリン・ドーレ(ドイツ)を下して、2時間25分40秒のタイムで金メダ
ルに輝き、2大会連続のメダル獲得の快挙を成し遂げた。日本のレースにも多
く出場しており、1986年の東京国際、1990年の大阪国際では優勝を果
たしている。実力世界ナンバーワンといえる女子選手が日本のマラソン大会に
出場するようになったのは彼女が最初で、小柄で笑顔を絶やさない明るい性格
は日本でも多くのファンを持っていた。また、有森裕子が尊敬するランナーの
一人に挙げていたのも有名である。

(*27)ワレンティナ・エゴロワ
ロシア出身で1990年代に活躍した。1992年のバルセロナオリンピック
大会は、ソ連崩壊によりEUN代表として、後半35Km過ぎから有森裕子とデ
ッドヒートを演じたが、残り1Kmでのラストスパートで引き離し、2時間32
分41秒で見事金メダルを獲得した。1996年のアトランタオリンピック大
会には、ロシア代表として出場したが、中間点手前で飛び出したファツマ・ロ
バについて行けず、2位集団で待機となったが、後半またも有森をかわし、オ
リンピック2大会連続となる銀メダルを獲得した。記録は2時間28分5秒。
2000年のシドニーオリンピックにも出場したが、メダル争いに加わること
なく途中棄権に終わった。また、彼女のベストタイムは、1994年ボストン
での2時間23分33秒である。エゴロワは、東京国際に7回(内2回は優勝)
、大阪国際に2回、名古屋国際に3回、長野に4回等、日本で多数のレースに
出場し、多くのファンを有していた。さらに、TBSの人気番組オールスター感
謝祭の「赤坂5丁目ミニマラソン」にも出て、人気を博していた。ちなみに日
本を愛していた彼女のラストランは、2004年の長野マラソンであった。

日本人でオリンピックのマラソンで最初に金メダルを獲得したのは、「Qちゃん」
こと高橋尚子である。爽やかな笑顔と前向きな生き方から多くのファンを持つ彼
女は、リクルート入社後小出義雄の指導の下、頭角を現したが、その初マラソン
は1997年大阪国際で7位に終わっている。翌1998年の名古屋国際で後半
猛烈な追い上げで2時間25分48秒という当時日本最高でマラソン初優勝を果
たし、同年のバンコクアジア大会において最高気温30℃を超す高温多湿の中で、
驚異の2時間21分47秒で優勝した。その後、2000年の名古屋国際で優勝、
五輪切符を獲得。同年の第27回シドニーオリンピック大会(*28)では、
ルーマニアのリディア・シモンと激しくデッドヒートを演じたが、34Km過ぎ
でかけていたサングラスを沿道に投げ飛ばしたと同時にロングスパートをかけ、
シモンを突き放し、そのままトップでゴール。高橋尚子の金メダル獲得は、日本
マラソン界の長年の悲願であるとともに、日本女子陸上界において史上初の快挙
であった。高橋の金は、陸上競技では1936年ベルリン大会の田島直人(三段
跳び)、孫基禎(マラソン)以来、64年ぶりでもあった。また、ゴールタイム
の2時間23分14秒はジョーン・ベノイトのロス五輪でマークしたタイムを1
6年振りに更新する五輪最高記録であった。(この記録は現在も破られていない)
そして、この功績により高橋は「国民栄誉賞」を受賞した。(現時点で、高橋は
最後の国民栄誉賞受賞者である)2001年のベルリンマラソンでは、女子初の
2時間20分切りとなる2時間19分46秒の世界最高記録をマーク、2002
年の同大会でも優勝した。1998年の名古屋国際での初優勝以来、この間マラ
ソン6連勝でもある。北京五輪の代表選考会となった2008年3月の名古屋国
際では、記録・順位とも過去最悪で、惨敗したことは記憶に新しいところである。
マラソン戦績は、11戦7勝。

(*28)第27回シドニーオリンピック大会
20世紀最後の夏季オリンピックで、南半球での開催は1956年のメルボル
ン以来44年振り。この大会は、25000人にも及ぶボランティアが成功さ
せた大会とも言われ、その活動は絶賛され、後日、ボランティアが主役となる
パレードも行われた。日本のメダル獲得数は、金5個、銀8個、銅5個。金メ
ダルは、高橋尚子の他に、女子柔道で田村亮子が「最高で金。最低でも金」の
悲願を達成。男子柔道で2大会連続の野村忠宏を始め、オール1本勝ちの井上
康生、初出場の瀧本誠が金メダルを獲得。

オリンピックの女子マラソン優勝者は、高橋尚子に次いで野口みずきがいる。
野口は、当初ハーフマラソンを中心に取り組んでおり、「ハーフの女王」といわ
れた。ハーフマラソンの戦績は、30戦19勝)初マラソンは、2002年の名
古屋国際で、中盤から独走の2時間25分35秒で優勝。その後、2003年大
阪国際で、当時日本歴代2位の2時間21分18秒で優勝、同年のパリ世界陸上
では、キャサリン・ヌデレバ(ケニア)に次いで2位となり、アテネ五輪の代
表に内定。2004年の第28回アテネオリンピック大会(*29)は、気温3
0℃を超える酷暑のレースとなったが、野口は25Km付近でロングスパートを掛
けると優勝候補の世界記録保持者ポーラ・ラドクリフ(イギリス)やヌデレバら
の強豪選手が遅れ始め28Km過ぎには独走となり、2時間26分20秒でゴール。
シドニーの高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メ
ダルをもたらした。この大会では、土佐礼子は5位、坂本直子は7位と、日本
勢は3選手とも入賞を果たした。また、2005年のベルリンマラソンで2時間
19分12秒の大会新で優勝すると同時にアジア記録、渋井陽子が2004年同
マラソンで出した日本記録をともに更新した。その後、北京オリンピックの代表
選考レースである2007年11月の東京国際に、2年2ヶ月ぶりのフルマラソ
ンに出場し、ライバルの渋井らを圧倒的な強さで破り、大会新で優勝、北京五輪
代表に選出され、2大会連続の金メダルが期待されている。なお、この優勝で日
本人として初めて東京・大阪・名古屋の国内三大マラソンの制覇を達成した。
(海外選手ではドイツのカトリン・ドーレのみ)野口のマラソン戦績は、6戦
5勝。

(*29)第28回アテネオリンピック大会
第1回大会以来、108年ぶり2回目の開催。男子マラソンでは、バンデルレ
イ・デ・リマ(ブラジル)が先頭だった35Km過ぎで乱入者にコース外に押し
出され10秒ほどロスし、リズムを崩すものの、3位でゴール。IOCは、彼に
対しスポーツマンシップを讃えるとしてクーベルタンの名前を冠した特別メダ
ルを授与した。日本人選手では柔道男子60Kg級で野村忠宏が前人未到の3大
会連続の金メダル、同じく女子48Kg級で谷亮子が2大会連続金メダル(メダ
ル獲得は4大会連続)。水泳では北島康介が100・200平泳ぎで2個の金。
また、男子ハンマー投げでは、記録1位のアドリン・アヌシュ(ハンガリー)
が競技終了後ドーピング検査を拒否し、失格で、室伏広治が金メダルを獲得。
なお、この大会でのドーピングによる失格選手は24人(メダル剥奪は金3、
銀1、銅3の7人)にのぼった。

 

特集第12号(連載その4)2008年6月14日鎌苅滝生氏

7.オリンピックで活躍した男子マラソン選手

オリンピックのマラソン優勝者では、第1回のアテネのスピリドン・ルイス以降
幾多の名金メダリストを輩出してきたが、それでは、オリンピックのマラソンで
連覇を達成した選手をご存知でしょうか。4年に一度しか開催されないオリンピ
ックでの連覇は、他の競技に増して困難な偉業であるとわれるが、達成者は2名
いる。

最初の連覇達成者はエチオピアのアベベ・ビキラである。今でもマラソンとい
えば、その代名詞のようにいわれるアベベであるが、1960年の第17回ロー
マオリンピック大会(*7)に参加した彼は、「裸足」で石畳のアッピア街道を
駆け抜け、コンスタンティヌス凱旋門を抜け先頭でゴールした。記録は、当時の
世界最高記録となる2時間15分16秒2で、見事金メダルに輝いた。1937
年から1941年までイタリアに占領されていたエチオピア国民は、この快挙に
熱狂し、アベベは一躍エチオピアの英雄になった。また、マスコミもレース前は
全くの無名であったアベベを「裸足の英雄」と絶賛した。アベベは、標高240
0mに位置するエチオピアの首都アジスアベバ近郊で育ち、スウェーデンのオン
ニ・ニスカネンとういうコーチから科学的トレーニングを受け、世界のトップラン
ナーとなったのである。今でこそ、多くのランナーが酸素濃度の低い高地でのト
レーニングを取り入れているが、アベベの成功は、その後この高地トレーニング
が広く行われるきっかけとなった。ところで「裸足のアベベ」は、別に最初から
裸足で走るつもりではなかった。たまたま愛用のシューズが壊れ、ローマで新し
いシューズを購入しようとしたが自分に合うものがなかったために、やむなく裸
足で走ったのというのが真相である。

(*7)第17回ローマオリンピック大会
ローマは1908年の開催地に決定していたものの、財政的な理由で開催を辞
退しており、52年後にようやく開催に漕ぎつけた。この大会で、ソ連が初め
てアメリカを抜いて金メダル獲得数でトップにたった。日本は男子体操陣が大
活躍した大会でもある。体操の小野喬は男子総合・鉄棒・跳馬で金メダルを獲
得し、「鬼に金棒、小野に鉄棒」といわれるほどの活躍であった。この大会で
の日本のメダルは、金4個、銀7個、銅7個であったが、その内、男子体操陣
が獲得したメダルは、金4個、銀2個、銅3個であった。

後にムハマド・アリとして、世界ヘビー級のチャンピオンの座についたカシア
ス・クレイが、華麗なフットワークでボクシングのライトヘビー級の金メダル
を獲得したのも、この大会である。なお、自転車の男子団体ロードレースで、
デンマークの選手が死亡した事件が発生したが、検死の結果、興奮剤が検出さ
れ、ドーピング問題が表面化し、その防止対策が本格的に検討されるようにな
った最初の大会にもなった。

アベベは、4年後の1964年の第18回東京オリンピック大会(*8)にも
出場した。彼は競技の6週間前に盲腸の手術を受け、十分なトレーニングを積
むことができず不安視されていたが、予想を覆し再び2時間12分11秒2の
世界最高記録を樹立して金メダルを獲得した。ローマ大会とは違って、シュー
ズを履いてのレースであったが、オリンピック史上マラソンの連覇を初めて達
成した。これ以降、2004年のアテネオリンピック大会に至るまで、オリン
ピックでマラソンの世界最高記録を樹立した選手は出現していない。

アベベは、この大会でゴールした後もほとんど表情を変えることなく、「まだ
まだ走れるぞ!」と言わんばかりに悠然として柔軟体操をしたが、その姿から
「走る哲学者」とも呼ばれるようになった。彼は、スタートの時、実は転倒し
ており、国立競技場を出る際は最下位であった。すなわち、競技場を出る時は
最下位、競技場に戻ってきた時は1位というわけで、まさに超人であった。と
ころで、彼が給水所に用意していたスペシャルドリンクは、スイカジュースで
あったとのこと。

アベベは、1968年に行われたメキシコシティオリンピック大会にも出場し、
3大会連続の金メダルを狙ったが、当時36歳であったことによる体力の衰え
もあり、17Kmで途中棄権している。しかし、この大会で同じエチオピアの
マモ・ウオルデが優勝し、エチオピアはオリンピックのマラソンで見事3連覇
を果たした。3連覇はもちろんエチオピアだけである。(ウオルデは、197
2年のミュンヘン大会でも銅メダルに輝き、エチオピアは4大会連続メダル獲
得という偉業を達成した。オリンピックの男子マラソンでの4大会連続メダル
は、今までエチオピアのみ。)1969年にアベベは車を運転中に事故に会い、
下半身不随になり、ランナーとしての選手生命は絶たれたが、そのスポーツに
賭ける情熱は衰えることはなく、1972年のミュンヘンオリンピック大会の
開会式に車いすでゲストで出たり、パラリンピックに参加するなど、スポーツ
との関わりを続けていたが、1973年に脳出血により41歳の若さで病死した。

(*8)第18回東京オリンピック大会
アジアで最初に開催されたオリンピック。開催国日本の金メダル第1号はウエ
イトリフティングの三宅義信であった。他に金メダルは、レスリングで5個、
男子体操で5個、柔道で3個、さらに女子バレーボールで東洋の魔女と呼ばれ
た日本チームがソ連をセットカウント3対0で下し金メダル。このバレーボー
ルの決勝戦のテレビの視聴率はなんと85%にも達したといわれている。
日本の金メダル獲得総数は16個で、アメリカ、ソ連に次いで3位となった。
でも、以上の記載では、金メダル15個にしかなりませんね。もう1個は、あ
まり話題にならず気の毒なので別記します。ボクシングの桜井孝雄でした。

この大会のマラソンでの優勝は、前述の通りアベベであるが、日本中を沸かせ
た円谷幸吉の活躍も見逃せません。初マラソンからわずか7ヶ月でオリンピッ
クのマラソンに出場した円谷は、他の日本人選手(君原健二と寺沢徹)ほど注
目されていなかったが、ゴールの国立競技場に2位で戻ってきた。しかし、後
ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれ、
3位となった。タイムは、金メダルのアベベに遅れること約4分の2時間16
分22秒8。円谷の銅メダルは、東京オリンピックで日本が陸上競技で獲得し
た唯一のメダルとなり、日本陸上界を救ったとまでいわれた。真面目で礼儀正
しく責任感の強い円谷は、その後の周囲の期待の重圧と腰を痛めたことにより
思い通り走れない焦りから、カミソリで頚動脈を切って自殺をしたが、これは
あまりにも有名な悲劇として記憶されている。なお、彼の事件を教訓にオリン
ピック選手に対するメンタル面でのサポートが重視されるようになった。オリ
ンピックのマラソンでの連覇達成者は、アベベほど知名度は高くはないが他に
もう一人いる。ドイツ(出場時は旧東ドイツ)のワルデマール・チェルピンス
キーである。1976年に開催された第21回モントリオールオリンピック大
会(*9)で、ほとんど無名に近かったチェルピンスキーは、1972年ミュ
ンヘン大会の金メダリストで当時世界最強といわれ、優勝候補の筆頭と目され
ていたアメリカのフランク・ショーター(*10)に勝ち、見事金メダルを獲得
し、世界中を驚かせた。記録はオリンピック新記録の2時間9分55秒であった。

(*9)第21回モントリオールオリンピック大会
人種差別問題等国際的な政治問題の続発で参加国が激減した大会であった。こ
の大会で、日本の男子体操が団体総合で5連覇を果たした。また、女子体操で
ビートたけしの物まねでお馴染みのルーマニアのナディア・コマネチが10点
満点を連発し、大人気となった。なお、カナダは金メダルの獲得がなく、開催
国として金メダルなしは初めての大会となった。

(*10)フランク・ショーター
1972年開催の第20回ミュンヘンオリンピック大会のマラソン競技でアメ
リカに64年振りに金メダルをもたらした。この前後の主要なマラソンでほと
んど負けなしの無類の強さを誇っていた彼は、1970年代最強マラソンラン
ナーであったといえる。アベベ・ビキラ以来のオリンピックのマラソン2連覇
は確実視されていたモントリオールオリンピック大会では、当時東ドイツの伏
兵チェルピンスキーに破れ銀メダルに終わっている。

彼は、日本でも大活躍をしている。伝統の福岡マラソンでは1971年から1
974年まで4連覇を果たしている。また、1973年のびわ湖毎日マラソン
では、レース中に便意を催し、沿道の観客が持っていた主催新聞社の小旗を引
きちぎって、コースを外れて用を足すというハプニングがあったにもかかわら
ず、その後コースに復帰してレースを継続し、独走の上、2時間12分3秒の
大会新記録で優勝したエピソードは有名。医学部の出身でスポーツ科学にも詳
しく、引退後は現役当時の経験も盛り込んだマラソンの指導書を出版している。
また、スポーツウェアの会社・フランクショーター・ランニングギア社を設立、
現在に至っている。

モントリオール大会以降、チェルピンスキーは目立った成績もあげておらず、
再び出場した1980年の第22回モスクワオリンピック大会(*11)でも
戦前の評判は決して高くなかった。しかし、この大会の優勝候補の大本命とい
われていた瀬古利彦(*12)や宗茂、宗猛(*13)の日本の3選手
などの不参加という幸運もあって、予想を覆す走りでアベベ・ビキラ以来のオ
リンピックのマラソン2大会連続金メダルの快挙を成し遂げた。2時間11分
3秒の記録であった。1984年の第23回ロサンゼルスオリンピック大会は、
自国のボイコットによる不参加で出場できず、マラソン史上初のオリンピック
3連覇はならなかった。

(*11)第22回モスクワオリンピック大会
前年の1979年12月にソ連の軍隊がアフガニスタンに侵攻するという愚挙
があり、これに対する制裁措置としてアメリカのカーター大統領がモスクワ五
輪のボイコットを表明した。西側諸国の多くがこれにならい、日本も賛否両論
ある中でJOCが不参加を決定した。西側諸国不参加の中、全204種目の内、
ソ連が80個、東ドイツが47個という大量の金メダルを獲得した。

(*12)瀬古利彦
高校時代から頭角を現し、早稲田大学時代は4年間箱根駅伝で花の2区を走り、
3年、4年は区間新を記録した。1977年の福岡国際で初マラソン5位、そ
の後78年福岡優勝、79年ボスト2位、79年福岡優勝し、1980年のモ
スクワオリンピック代表に選出され、金メダル候補の最右翼といわれていたが、
ソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットにより出場はならなか
った。80年の福岡国際でモスクワオリンピックの金メダリストのチェルピン
スキーを破り、福岡での3連覇を飾ったが、もしモスクワ五輪をボイコットし
ていなければ、彼が金メダルを獲得していたのではといわれた。その後、足の
故障でブランクがあったが、1983年の東京国際で日本人初の2時間8分台
となる2時間8分38秒で優勝し、翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダ
ル候補として再び注目を浴びる。しかし、1984年のロサンゼルス五輪では、
調整の失敗で14位と惨敗。1988年のソウルオリンピックにも出場したが、
9位に終わり、オリンピックでは入賞すらなかった。ベストは1986年シカ
ゴマラソンで優勝時の2時間8分27秒、マラソンの通算成績は15戦10勝。

(*13)宗茂・宗猛
双子の兄弟であることはあまりにも有名である。宗茂・猛兄弟は瀬古利彦と数
々のレースで死闘を繰り広げ、3人は1980年代前半日本男子マラソンのビ
ッグ3として、マラソン界をリードしていた。1985年の北京国際マラソン
では、兄弟同タイムで、兄茂が優勝、弟猛が2位となり、国際マラソンでの兄
弟1・2位独占は世界初の快挙となった。

双子ではあるが利き手が異なり、茂は左利き、猛は右利きである。また、性格
も兄茂は大雑把で、天才肌であるのに対し、弟猛は几帳面で努力家であるとい
われる。マラソンへの取組み方も違い、兄茂は「マラソンは練習よりも調整」
とし、己の感性のまま走るのに対し、弟猛は「マラソンは練習あるのみ」とひ
たすら練習に励んだ。走法も茂はストライド走法、猛はピッチ方法であった。

兄茂のベスト記録は2時間9分5秒6(1978年別府大分毎日マラソン)で、
当時の世界歴代2位で、日本人初のサブテン(2時間10分以内)である。弟
猛のベストは2時間8分55秒。ロサンゼルスオリンピックでは日本人選手最
高の4位入賞となった。なお、他の双子のマラソン選手としては、女子マラソ
ン界の大南博美・敬美姉妹が有名である。

オリンピックの男子マラソンにおける日本のメダル獲得数は、全部で5個であ
る。1936年の第11回ベルリンオリンピック大会(*14)で孫基禎(*
15)が金メダル、南昇竜(*16)が銅メダル、1964年の第18回
東京オリンピック大会で円谷幸吉が銅メダル、1968年の第19回メキシコ
シティオリンピック大会(*17)で君原健二(*18)が銀メダル、199
2年の第25回バルセロナオリンピック大会(*19)で森下広一(*20)
が銀メダルを、それぞれ獲得している。また、メダルの獲得には至らなかった
が、中山竹通(*21)はソウル、バルセロナと2大会連続4位入賞の成績を
挙げている。

(*14)第11回ベルリンオリンピック大会
ベルリンは1916年のオリンピック開催予定地であったが、第一次世界大戦
により中止された経緯がある。この大会は、当時隆盛を誇っていたアドルフ・
ヒトラー率いるナチス・ドイツが威信をかけて開催したいわくつきのものであ
る。この大会で、古代オリンピックの発祥の地であるオリンピアで五輪の火を
採火し、開会式のメインスタジアムまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施され
た。また、大会の記録映画が撮影され、ベネチア国際映画祭で金賞を受賞する
など各方面で絶賛され、以降のオリンピック大会では夏・冬ともに記録映画の
製作が義務づけられるきっかけとなった。女子競泳200m平泳ぎで前畑秀子
が優勝したが、そのラジオ放送の際NHKアナウンサーの加西省三の「前畑頑張
れ!」という実況は、今も語り草となっている。

(*15)孫基禎
中国との国境を流れる鴨緑江の畔の町(現在の北朝鮮)の出身。日本名は「そ
んきてい」であるが、現在は「ソン・ギジョン」と韓国語読みされることが多
い。1935年に東京で当時世界最高の2時間26分42秒を記録した。ベル
リンオリンピック大会では、当時、朝鮮半島が日本に併合されていたため、彼
は日本代表として出場し、オリンピック記録となる2時間29分19秒2で金
メダルを獲得した。第二次世界大戦後は韓国籍となり、2002年ソウルで9
0歳で死去。五輪公式記録では、彼の国籍は優勝当時の日本のままになってい
るが、アメリカではカリフォリニアにある五輪歴代マラソン優勝者記念碑では
「Korea」と記載されている。過去の不幸な歴史が生んだ「悲劇のヒーロー」
である。

(*16)南昇竜
日本名「なんしょうりゅう」、韓国名「ナム・スンニョン」。全羅南道出身で、
明治大学卒業。大学時代は箱根駅伝で活躍。ベルリン五輪には、優勝した孫基
禎とともに日本代表として出場し、銅メダルを獲得した。

(*17)第19回メキシコシティオリンピック大会
この大会の聖火リレーの最終ランナーは、エンリケタ・バシリオという女性で、
史上初の女性最終ランナーであった。海抜2240mの高地で開催されたが、
陸上短距離や跳躍競技で好記録が続出、三段跳びでは、3人の選手が世界記録
を5回にわたって更新した。チェコスロバキアのベラ・チャスラフスカが女子
体操競技で4個の金メダルを獲得し、話題となる。日本勢は11個の金メダル
を獲得し、前回東京同様、アメリカ、ソ連に次いで3位となった。

(*18)君原健二
1960年から1970年代前半に活躍した名ランナー。首を傾けた独特のフ
ォームで、苦しそうに走ることでも知られた。高校時代は特に目立った活躍を
していなかったが、社会人になりマラソンランナーとして成長、オリンピック
には3大会連続出場した。東京オリンピックでは実力を十分発揮できず8位に
終わったが、メキシコシティでは、ウオルデに次ぎ2時間23分31秒で銀メ
ダルを獲得、31歳となったミュンヘンでも代表に選出され5位入賞を果たし
た。現役時代は別府大分毎日マラソンの3度の優勝を含め、7勝している。

第一線を退いた後も市民マラソンを中心に出場を続けており、今日まで全ての
レースで完走しているといわれている。東京大会で一緒に出場した円谷幸吉と
はその時以来、無二の親友となり、今でも毎年円谷の墓参に行き、好物のビー
ルを墓石にかけることが習慣になっているという律儀な人柄の持主でもある。

(*19)第25回バルセロナオリンピック大会
ソ連が崩壊し、冷戦終結後の初の夏季オリンピックとなったが、芸術、美術、
音楽等で優れた人物を排出し続けるスペインらしく、開会式・閉会式ともに多
くのアーティストが参加し、近年まれに見る芸術性の高いものと絶賛された。
開会式のマスゲームの音楽は坂本龍一が作曲、式場でオーケストラを指揮した。
バルト三国を除く旧ソ連の構成国家12ヶ国がEUN(統一チーム)を結成し、
参加。当時中学2年で14歳の岩崎恭子が200m平泳ぎで金メダルを獲得、
「今まで生きてきた中で一番しあわせ」の名セリフを残した。日本の金メダル
は、他に柔道78キロ級の吉田秀彦と71キロ級の古賀稔彦。

(*20)森下広一
旭化成の宗茂監督の指導の下、頭角を現した。マラソン初出場は1991年の
別府大分毎日マラソン。初マラソンながらソウル五輪4位の中山竹通と一騎打
ちを演じたが、このレースで中山は39Km過ぎに森下の肩をポンと叩いてスパ
ートを促した。中山は期待の若手である森下に勝負どころを教えるために、そ
れを示したものであるが、後々に語り継がれる名場面となった。これを機に森
下はスピードを上げ、そのままゴール。2時間8分53秒の初マラソン日本最
高記録で優勝した。この記録はその年の世界ランキング1位でもある。

翌1992年東京国際マラソンで、森下は再度中山と一騎打ちとなり、これを
制し、マラソン2戦2勝のキャリアでバルセロナオリンピックの代表に選出さ
れた。バルセロナには、旭化成の谷口浩美、中山とともに出場。レースは序盤
スローペースとなったが、後半韓国の黄永祚とマッチレースを繰り広げ、残り
2Kmのモンジュイックの丘で突き放されて黄の後塵を拝したものの、2時間1
3分45秒で銀メダルを獲得した。日本勢は中山がソウルに次いで4位に食い
込み、谷口は23Km付近での転倒のアクシデントにめげず8位と健闘した。

(*21)中山竹通
身長180センチの大柄で、その強い個性ゆえ、孤高の天才ランナーといわれ
た。1980年代後半に瀬古、宗兄弟らと、1990年代前半には谷口、森下
らと日本マラソン界をリードした。2時間10分を切るサブテンを5回(瀬古
と並び歴代2位、最多は高岡寿成の6回)、2時間9分を切るレースは4回で
最多を誇る。終始好位置につけ終盤のスパートで勝負をかけることの多かった
瀬古のレースとは対照的に、その自慢のスピードで序盤から先頭を引っ張る展
開がほとんどであった。1987年のソウルオリンピックの代表選考会の福岡
国際マラソンでは、スタートから飛び出し、20Km1時間を切り、35Kmまで
当時世界最高記録を49秒も上回るハイペースで飛ばしたが、終盤は雪混じり
の雨天の影響もあり、記録更新はならなかったが、2位以下に大差をつける2
時間8分18秒で優勝した。1988年のソウルオリンピックは2時間11分
5秒、1992年バルセロナオリンピックは2時間14分2秒で、それぞれ4
位入賞を果たした。男子マラソンでの連続入賞は君原以来の快挙である。

 

特集第12号(連載その3)2008年5月10日鎌苅滝生氏

4.ピエトリの悲劇

42.195Kmで行われた最初のマラソンが、第4回ロンドンオリンピックであ
ったことは前章の通りであるが、この大会で競技中に劇的な出来事があった。
マラソンレースは7月24日、午後2時30分にスタート。16ヶ国56名の選
手が参加して行われたが、前半は地元イギリスの2選手がリードし、その後南ア
フリカの選手がトップに立っていたが、終盤の41Kmになってイタリア選手の
ドランド・ピエトリが逆転し、トップに躍り出た。しかし、ピエトリは急激なペ
ースアップが影響し、疲労の色がにじむ中、後方よりアメリカのジョン・ヘイズ
が堅実なペースで追い上げていた。競技場に入ったピエトリは疲労困憊で、ゴー
ルの方向を間違える。これを競技役員が正しい方向に変えさせるが、ピエトリは
よろめいて、倒れてしまう。場内騒然の中、医師と役員が駆け寄り介抱、助け起
こされたピエトリは進んでは倒れ、また立ち上がるといった状況で意識朦朧で、
5回も転倒し、ようやくゴールした。そのタイムは、2時間54分46秒であっ
た。最初の42.195Kmでのフルマラソンサブスリーランナーが金メダリスト
となるところであったが、そこに悲劇が待っていた。医師が介抱し、役員が手を
貸したということで失格となったのである。当然、その優勝は記録とともに抹消
されることになり、アメリカのジョン・ヘイズが繰上げ優勝となった。記録は2
時間55分19秒。ピエトリはおそらく脱水症状で倒れたものと思われるが、そ
の力走に感激したアレキサンドラ王妃は特別の金杯を贈り健闘を称え、またシャ
ーロック・ホームズを生んだかの小説家コナン・ドイルも「シャーロック・ホー
ムズより」と刻んだ金のシガレットケースを贈った。

5.キセルマラソン事件

話は前後するが、1904年に開催された第3回セントルイスオリンピック大
会(*6)において、オリンピック史上で最も不名誉な事件である「キセルマラ
ソン事件」が発生した。第1回のアテネ五輪から大会の呼び物になっていたマラ
ソンは、8月30日に30℃を超える猛暑の中、距離40Kmで開催された。悪コ
ンディションの下、先頭を切って走っていた地元アメリカのフレッド・ローツは、
20Km過ぎで極度の疲労のため力尽きて道端に倒れ込んでしまったが、たまたま
通りかかった車に乗せてもらいスタジアムに帰ろうとした。ところが、スタジア
ムまで8Kmの地点で車がエンストしてしまうが、その間に体力を回復していたロ
ーツは車から降りて再び走り出してゴールを目指し、大歓声の中、1着でゴール
インしてしまった。しかし、その直後にローツを乗せた運転手が告発したため、
不正が発覚し、非難ごうごう、ローツは「ふざけてやったこと」と弁明したが、そ
の場で失格となり、その後マラソン界から永久追放された。歴史に残る不名誉な
エピソードである。ローツの失格によって繰り上げの金メダルを勝ち取ったのは
イギリス出身のアメリカ選手であるトーマス・ヒックスで、ゴールしたのはロ
ーツの約1時間後のことで、その記録は3時間28分35秒であった。ヒックス
はこのオリンピックに先立つこの年4月に開催されたボストンマラソンでも2位
となった選手であるが、実は彼も興奮剤を服用していたといわれており、現在の
ようなドーピング・システムのルールが確立されていたら、当然失格となり、メ
ダルを剥奪されていたはずである。
(*6)第3回セントルイスオリンピック大会
第3回のオリンピック大会は、アメリカからシカゴとセントルイスが立候補し、
当初シカゴに決定していたが、財政難により万国博覧会の付属大会としてセン
トルイスに変更された。
初のアメリカ開催となった大会であるが、ヨーロッパ諸国から遠過ぎるという
理由で第2回パリ大会に比べ、参加選手数が大きく減少し、アメリカ選手の活
躍が際立った大会となった。
上記のローツの「キセル事件」は、1904年の出来事でオリンピック史上の
大きな汚点として残っているが、現代のマラソンでも同様なキセルが発生し、
多くの人を驚かせた。

伝統のボストンマラソンで、1980年のことである。この大会おいて女子の先
頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。しかし、
大会競技委員や他の選手からレース途中で彼女を見ていないという複数の証言が
あり、またゴールした時にルイーズのウェアーにほとんど汗が付いていなかった
ことから、主催者は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取
り消した。代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。その後、
ルイーズは途中地下鉄に乗り、コースをショートカットし、ゴール手前800m
から走ったことが判明。彼女はボストンマラソンの参加資格を得るために、ニュ
ーヨークマラソンでもキセルをしていたとのことで、この悪質な行為は多くの人
を驚かせたのである。

6.女性の参加

第1回アテネオリンピックの大会参加者は男子のみで、マラソンも例外ではなか
った。(ただし、当日メルポメネという女性が隠れて走り、これが史上初の女子
マラソンランナーとされている。)もともと古代オリンピックは女人禁制であっ
たが、第1回アテネ大会はこれに準じたものであるが、クーベルタン自身もオリ
ンピックへの女性の関与は、勝利者に栄冠を授与する際の手伝いだけと考えてい
たようである。

女性のオリンピック参加が認められたのは、第2回パリ五輪以降になる。しかし、
女子の陸上競技への参加が認められるようになっても「女性がマラソンを走るこ
とは生理的に無理である。」という見解が広く信じられおり、その後もオリンピ
ックをはじめとするマラソン大会は男子のみで開催されていた。これに対して、
1966年のボストンマラソンにおいて、主催者に隠れて走る女性が出現し、そ
の後も年を追って非公式の女性ランナーの参加が増加してきたため、1972年
に正式に女子の参加が認められるようになった。オリンピックにおいて女子マラ
ソンが正式種目として採用されるようになったのは、1984年のロサンゼルス
オリンピック大会からである。

 

特集第12号(連載その2)2008年4月10日鎌苅滝生氏

2.初めてのマラソンレース

1回アテネオリンピック大会(*4)でのマラソンレースは、その最終日に5ヶ
国25名の参加選手により開催された。コースは故事にちなんでマラトンからア
テネまでの36.909Kmであった。(その後、1920年の国際陸連の再計
測で36.75Kmであることが判明した。)優勝したのは地元ギリシアの25
歳の青年スピリドン・ルイスであった。古代オリンピック発祥の地で復興した
第1回近代オリンピックであるにもかかわらず、初日以来、開催国ギリシアは陸
上競技では惨敗の連続で、最終日まで金メダルなしという成績であった。

ところが、マラソンレースの後半で、ギリシア人が誇るマラトンの戦いの故事そ
のままに、ギリシア選手がトップに立ち、優勝するかもしれないというので、競
技場は歓喜と興奮のうずに巻き込まれた。大歓声の中、ルイスが競技場に戻って
くると、ギリシアのコンスタンチヌス皇太子と国王の弟で審判長を務めていたジ
ョージ親王は興奮のあまりロイヤルボックスからコースに駆け下り、ゴールまで
200mほど伴走した。ルイス選手のこのマラソン史上最初の優勝タイムは2時
間58分50秒であった。この優勝により彼は一躍ギリシアの英雄となり、国王
から特別表彰されるほどであった。ルイスは、当初羊飼い兼郵便配達人と伝えら
れていたが、実際にはアテネ郊外に住む水売り行商人であったとのこと。ところ
で、この時の優勝タイムは、もし42.195Kmで行われていたら、少なくとも
あと23~24分はかかっているはずなので、サブスリーにほど遠い記録でした。

(*4)第1回アテネオリンピック大会
1896年4月6日に、ギリシア国王ゲオルギウス1世の開会宣言により、幕を切っ
て落とされた。13ヶ国、295名の参加選手(男子のみ)で、8競技42種目のメ
ダルが争われたが、金メダルの獲得数はアメリカ11個、地元ギリシア10個、ドイ
ツ9個であった。ただし、優勝者に授与されたのは、金メダルではなく聖地オリンピ
アで採取されたオリーブの一枝と「銀メダル」である。
当時は現在の競技との違いが多く見られた。例えば、陸上競技のトラック競技は1周
が333mで、右回りで行われた。水泳はプールではなく海上(ゼーア湾)で実施。
体操競技は屋外で行われた、また、ウエイトリフティングは体操競技の1種目として
実施された。レスリングはグレコローマンのみで、体重制限なしであった。テニスの
ダブルスは他の国の選手とペアを組むことができた、現にダブルスの優勝はドイツ・
イギリスのペアであった。等々・・・。

アテネオリンピックで実施されたマラソンは欧米各国に大きな影響を与え、その
後各地で40Kmほどの長距離レースが開催されるようになった。そのひとつが
伝統あるアメリカのボストンマラソンで、その第1回大会開催は、アテネオリ
ンピックの翌年1897年のことである。

ころで、オリンピックのマラソンは距離が一定せず、第2回パリ大会から第7回
アントワープ大会までまちまちで、現在の42.195Kmに統一されたのは19
24年の第8回パリ大会からである。ちなみに、第2回以降第7回までのマラソ
ンの距離は、以下の通りである。
第2回パリ40.260km
第3回セントルイス40.000km
第4回ロンドン42.195km
第5回ストックホルム40.200km
第6回ベルリン第1次世界大戦のため中止
第7回アントワープ42.750km


3.マラソンが42.195kmになった訳

マラソンが42.195Kmになったのは、マラトンからアテネまでがこの距離
であったからだとする書物や資料が多くあり、それを事実であると思っている人
もいるが、これは間違い。42.195Kmの距離でマラソンが行われた最初の
競技は、1908年に開催された第4回ロンドンオリンピック大会(*5)で
ある。この大会のマラソンコースは、ウインザー城をスタートに、ロンドン市内
の競技場のロイヤルボックス前をゴールとする片道コースで、26マイル385
ヤード(42.195Km)であった。

当初26マイルの距離で行われることになっていたが、国王エドワード7世の王
妃アレキサンドラが「スタート地点は宮殿の庭に、ゴール地点は競技場のロイヤ
ルボックスの前に」と要望したため26マイル385ヤードに伸ばされたもので
ある。(王妃ではなく、国王の要望であったとの説もある。)当初設定の26マ
イルは41.843Kmで、いずれにしろメートル法に換算すれば端数がでたこと
になる。したがって、マラソンの距離における端数とは、385ヤードのことで
あって、2.195Kmや0.195Kmではないのである。

1920年に国際陸連(IAAF)がマラソンの距離の統一化を検討したが、イギリ
ス陸連の提案を採択して、このロンドン大会の距離である42.195Kmと決
定して、1924年の第8回パリオリンピック大会から実施され、以降マラソン
といえば42.195Kmとなったのである。もし、アレキサンドラ王妃がマラ
ソンに興味を持っていなければ、42.195Kmになっていなかったかもしれ
ないのである。

(*5)第4回ロンドンオリンピック大会
1908年の大会は本来イタリアのローマで開催される予定であったが、1906年
にヴェスビオス火山が噴火し、その被害がローマにも出たため財政面で逼迫し、ロン
ドンが代替開催したもの。第3回大会までは個人参加の色彩が強かったが、この大会
から参加に当っては各国のオリンピック委員会を通じて行われるようになり、開会式
で国旗を先頭に国別の入場行進が実施されるようになった。競泳競技もこの大会から
プールが使用されるようになった。
この大会では、主催国イギリスと急速に国力を伸張していたアメリカとの間で、陸上
競技でトラブルがあり、両国民の感情が悪化した。この状況を危惧したペンシルバニ
ア大司教エチュルバート・タルボットは「オリンピックにおいて重要なことは、勝利す
ることよりも、むしろ参加したことであろう。」と説教し、この言葉に大いに感銘を
受けたクーベルタンが引用し「オリンピックは、参加することに意義がある。」と演
説し、これがのちのち語り継がれることとなった。

とろで、このマラソンの42.195Kmの距離の測定は、ハイテク機器が出現し
た今日でも規定により、人間の手で計測されている。使用される巻尺は太さ40
ミリ、長さ50メートルの鉄製で、50メートルづつ844回も計測しているの
である。

特集第12号(連載その1)2008年3月29日鎌苅滝生氏

まえがき

『42.195』この中途半端な数値。でも、これがマラソン競技の距離である
ことは、マラソン競技者のみならず、広く老若男女に知れわたっている。マラソ
ンは、陸上競技のみならず、あらゆるスポーツの中でも最も人気のあるひとつで、
国内外のマラソンのテレビ中継は年間10レース以上ある。持ちタイムの良い選
手が必ずしも優勝するとは限らず、下馬評にも上らないような選手が大健闘する
こともあり、また気象条件やコースコンディションや、ちょっとしたアクシデン
トやメンタル面での影響で結果が大きく左右されることもあり、レースのたびに
ドラマが生み出されるのが、マラソンレースの大きな特徴ではなかろうか。

また、「マラソンは人生のようなもの」と例えられることもある。始めは先頭を
走っていても、後半次第に遅れることもある。逆にスタートでつまずいても次第
に追い上げ最後に勝利する場合もある。人生同様、長いレースの中で、様々な展
開がみられる。ここに、マラソンに高い人気がある所以があるのではなかろうか。

でも、なぜ42.195Km競争ではなく「マラソン」というのか、なぜマラソン
はこのような中途半端な42.195Kmという距離なのか、いつからマラソン競
技がおこなわれているのか、マラソンで活躍した選手は、等々マラソンに関する
由来やエピソードを「マラソンあれこれ」と題して、整理をしてみました。話が
あちこち脱線するかもしれませんが、ご興味のある方はどうぞお付き合い願いま
す。それでは、「マラソンあれこれ」の始まり、始まり・・・。

1.マラソンの由来

マラソンの名の起源は、ギリシアにおけるペルシアとのマラトンの戦いにある
ことは有名である。紀元前490年9月12日(8月12日も有力な説としてあ
る)、ギリシアを支配下に置こうと目論み、アテナイ(現在のアテネ)(*1)
を陥落させるために来襲してきた2万人(高名な歴史家ヘロドトスによれば2万
6千人)のアケメネス朝ペルシア(*2)の大軍を、アテナイの将軍ミルティア
デスがアッティカ半島東部のマラトン(Marathon)の地で、1万人の戦力を指揮
して撃退した。

この勝報をアテナイに報告するために健脚自慢のフェイディピデスという兵士
(プロのメッセンジャー、即ち飛脚であったという説もあり)が伝令として選ば
れた。彼はマラトンの戦場からアテナイまでの約40Kmの距離をひた走り、ア
テナイの城門に到着し『喜べ、わが軍勝てり!』」と告げ、その直後、力尽きて
そのまま絶命したという。では、彼はなぜ命を賭けて走ったのか。この時、アテ
ナイでは抗戦派と降伏派が激しく対立し、一触即発の危機にあり、『わが軍勝て
り!』の勝利の一報がなければ、収拾のつかない大混乱に陥る懸念も予想された
のである。ただし、この話はギリシア史では有名であるが、史実かどうかという
疑問も出されている。

(*1)アテナイ
アテナイはギリシアの首都アテネの古名である。町の中心部にあるアクロポリスの丘
にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシアの都市国家。エーゲ海や黒海
を舞台に海上交易を中心に商業都市として栄えた。地名の由来は、ギリシア神話に出
てくる女神アテーナー。
パルテノン神殿は世界中の観光客が訪れる有名な遺跡である。この神殿は古代ギリシ
ア建築の傑作のひとつで、ユネスコの世界遺産に登録されている。筆者は30年ほど
前に訪れたことがあるが、修復工事もなされ保存状態もよく、実に見事な遺跡である。
機会があれば行かれることをお勧めする。

(*2)アケメネス朝ペルシア
紀元前550年に古代イランに起こった王朝・帝国。その版図は現在のイランのみな
らず、アフガニスタン・パキスタンの西部、トルコ・シリア・レバノン・イスラエル
の全域、さらにはエジプト・リビアの北部に拡がっていた。ダレイオス1世の時、ギ
リシア征服を企てたが、失敗。帝国はペルセポリスに大殿を造営し、繁栄を謳歌した
が、紀元前330年にアレキサンダー大王に滅ぼされた。世界遺産ペルセポリスの遺
跡は、現在のイラン中南部の都市シラーズの郊外に残っている。筆者はここも訪れた
ことがあるが、その規模はアテネのパルテノン神殿よりはるかに大きな規模で、往時
の繁栄振りが偲ばれる。
このマラトンでの故事にちなんで、1896年にアテネで第1回近代オリンピック競
技が開催されるにあたり、その目玉レースとしてマラトンの古戦場からアテネまでの
長距離走が加えられた。フランス・ソルボンヌ大学の言語学者ミシェル・ルブアル教
授がギリシア史に関係の深いフェイディピデスの悲壮な物語を偲んで、マラトンから
アテネまでの競争をオリンピック種目に加えることを提案し、これをピエール・ド・
 クーベルタン男爵(*3)が採用して、これを「マラソン競争」と名付けたのであ
る。これが初のマラソンのレースである。なお、マラトンの戦いがあった9月12日
は、現在「マラソンの日」とされている。

(*3)ピエール・ド・クーベルタン男爵
フランスの教育者であり、近代オリンピックの創立者である。歴史書のオリンピアの
祭典の記述に感銘し、近代オリンピックを提唱、国際オリンピック委員会(IOC)を
設立、1896年にアテネオリンピックの開催を実現し、IOCの事務局長、会長を務
めた。オリンピックのシンボルである五輪のマークも考案した。また、名言「オリン
ピックは、参加することに意義がある。」を残したことでも有名。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

上部へスクロール

このサイトは reCAPTCHA によって保護されています。 プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。